すれちがい
「お風呂……お風呂っ〜!!」
 ぐたーっと藤姫の館で羽根をのばすのは、元龍神の神子あかね。
「はぁ?」
 あかねの意味不明なに呟きに、側にいた天真は訝しげに顔を向けた。少女の行動や発言は、常に天真の身の周りに何かしらの騒ぎを引き起こさせる。それでもこの少女の前から逃げられないのはなぜだろう?
 不思議そうに天真はあかねを見つめる。
 
「……天真君。ここに来てからお風呂に何回入った?」
 「むうっ」っと顔をかわいらしくしかめて、あかねは天真の答えを待った。
 その顔があまりにも幼くて、天真は「くっ」と吹き出した。
 笑いながら、それでも答える。
「俺か?…風呂には入ってないけどな、川とか滝で身体は洗ってるぜ」
(やっぱ蘭みてぇだな)
 自分を「京に残ろう」と決意させた妹の存在を思い出し、少し寂しげに天真は笑った。
 
「羨ましい!!」
 天真のその表情に気づいたのか、それともただ単に本当に羨ましかっただけなのか。
 その返事を聞いて、あかねがぐぐぐっと天真の手を握る。
 あかねのその羨ましがりように、天真は呆れてしまう。

(この姿を見たら……あいつはどう思うんだろう?)
 天真の脳裏に、自分より少し年上の生真面目で苦労性な青年の顔が思い浮かぶ。
(きっと俺以上に身の回りが騒がしいんだろうなぁ、アイツ…)
 あかねを見やりながら、そんなことを思う。

「おいおい。お前「一応」貴族の姫になったんだから、そこまで羨ましがることかぁ?」
「羨ましいよぅ。私なんかね〜【お風呂】なんて言ったら最後、一大イベントになっちゃうよ」
「そうなのか?」
「そうなの。うう、もうこの際水でいいから浸かりたい〜!!」
 ふう、とあかねが大きなため息をつく。
「…んじゃ、詩紋でも連れて川に行くか?」
 理由は判らないが、この頃沈みがちのあかねを励まそうと、ふっと思いつきで天真が話を持ちかける。
「行く行く! すぐ行こうっ!!」
 もちろん一も二もなくOKしたあかねだった。
「あ?……」
 天真が何かを思いだしかけて言葉にしようとする。
「何?」
 嬉しそうなあかねの顔が天真の視界いっぱいに飛び込んでくる。
「いや、なんでもない」
(…何か忘れてるんだよなぁ)





「天真君に詩紋君! 絶対にこっち見ちゃダメだからね?!
 いいよって言うまではダメだからね!?」
 
「へいへい」
「うん、わかったよ」
 
 二人に念入りに忠告したあかねは、くるりと川に向き直ると「ほやぁ」と幸せそうに笑った。そして素早く着ている物を脱ぎ、持参してきた薄衣を纏う。
「誰か見てるワケなんてないだろうけど一応ね★」
 そうしてその格好のまま川にジャブジャブと入っていく。
 
「冷た! プール入ってるみた〜い♪」
 ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせては笑う。
 沈んでいた心も再浮上してきそうな雰囲気だ。
 川の流れは緩やかで、もうすぐ秋にさしかかるはずの季節は気持ちの良いほど穏やかな温度で。
「長時間入ってると…さすがに風邪ひいちゃうかな」
(天真君と詩紋君も待ってるだろうし上がろう)
 名残惜しそうに、水面に顔を近づけて瞳を閉じる。
(水の音……と……?!)
 はっと顔をあかねは上げる。
 
「……あかね殿」
 
 硬直して動けないあかねの前に現れたのは、無表情に立つ鷹通だった。
 眼鏡の奥の淡い萌葱色の瞳が、あかねをしゃんと見つめている。
 
「たたた、鷹通さんっ?!」
 予想外の青年の、突然の出現にあかねは口をぱくぱくとさせる。
 
「…はい」
 そしてこれまた予想外に、この状態でやけに冷静な鷹通が返事を返す。なおかつばしゃばしゃと、水に濡れるのも構わず川に入ってきた。
 慌てて水の中にしゃがみ込んだあかねの前に、すぐに鷹通がたどり着く。
 
「……あの、その、どうして鷹通さんがここに…今日は《お仕事》で会えないって…」
 
−自分の一番気になる人。
 
 恥ずかしくて鷹通を見られないあかねは、水に映る鷹通を見つめながら呟く。
 ふっと鷹通が顔を緩める。
「やはり、天真殿から聞いていませんでしたか…。仕事を早めに片づけて、訪ねるつもりだったのですよ」
 
 藤姫の館に使いを出そうと思った鷹通だが、たまたま藤姫の館に向かう天真に言伝を頼んだのだ。あかねに会いに行ったはいいが、すっかり目的を忘れたのは天真。
 鷹通が仕事を終えて藤姫の館に訪れた頃…館ではあかね失踪の直前一歩手前まで来ていたのだった。
 最後にあかねと会ったのは天真だと、頼久の証言で明らかになったりもするのだが。それはさておき。
  
 簡単に事を語った鷹通に、合点がいったように目をあかねが見開く。
「頼久に天真殿の居場所を聞いて、あかね殿もきっと一緒だろうと…」
 言いかけて鷹通は言葉を止める。
「天真君が思い出そうとしていたのは鷹通さんとの約束だったんだ!! っ……ごめんなさい、鷹通さん!」
 思い切り叫ぶと、見る見るうちにあかねの瞳に涙が溜まっていく。
 
「……別に構いません。ですからどうか泣かないで」
 鷹通はそう言うと、水に沈むあかねの身体を自分の肩に引き上げた。
 驚いて、じたばたとあかねがもがく。
「鷹通さん?! 濡れちゃいますよっ……」
「別に良いんです」
「向こう、天真君と詩紋君がいますよ?!」
「二人は帰しました」
「ええ?? えとっ…、一人でも歩けるから……」
「今は、離したくないんです」
 
 鷹通の言葉に、ついにあかねは赤くなって黙る。
 鷹通もあかねを抱えて黙って川から上がる。
 
「……鷹通さん……」
 静かな沈黙に耐えられなくなったあかねが、おそるおそる鷹通に話しかけてみる。
 無意識にか、あかねの腕は鷹通の肩をきゅうっと抱きしめた。
「っ………心配、しましたよ……」
 そう言うが速いが、鷹通はあかねを抱え込んだままずるずると岸辺に座り込んでしまった。
「鷹通さん?!」
照れくさい表情を隠すかのように、鷹通が眼鏡を指で押し上げる。
「情けないですね。貴女がいないという知らせを聞いたとき…私はなぜか真っ先に『帰ってしまわれた』という思いがよぎったんです。こんな仕事ばかりにかまけている私よりも、やはり貴女は元の世界を選んだのではないか、と……」
 鷹通が少し震える声と腕で、そっと水で湿ったあかねの髪に触れる。あかねが自分の腕の中にいる事を、未だ信じられないとばかりに。
 全ての不安を吐き出すかのように鷹通が呟く。
「川で水を浴びている貴女は……まるで私の手の届かない存在のようでした……」
  
 得られないものに惹かれることは慣れている。仕様がないことなのだから。ずっと、そうやって生きてきた鷹通だから、ようやっと手に入れた実感が、鷹通には未だよくわからなくて。
 でも、あの瞬間。
 水面近くで瞳を閉じるあかねを見たその瞬間、鷹通の身体は、声は動き出していた。
(手に届かなくなるのが怖くて、思わず自分の腕に引き寄せていた…)
 
 瞳を細めた鷹通に、あかねが不可解な顔で反論する。 
「どうしてそんなこと思うんですか? 確かに帰りたいと思うことはあるけれど、でも……私は鷹通さんがいるから『ここ』にいるのに」
 あかねの真っ直ぐな言葉が鷹通の心に染み渡る。
「そうですね。…そうでした。それでも、不安になる私を愚かだと貴女は思いますか…?」
 辛そうに鷹通が微笑む。
 
(ああ、私は、ここまで貴女を欲しているのか)
 
「思わないですよ! 私っ、藤姫のお屋敷にいていつも思うんです。『ここは自分のいるところじゃないなぁ』とか。確かに藤姫は妹みたいにいい子だけれど、違うんです。私のいたいところは……時々そう思うと、急に不安っ……っ!?」
 あかねが慌ててごしごしと瞳を擦る。
 それでもごまかしきれないほど、あかねの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「あかね殿………
 私達は、同じ不安を抱えていたのでしょうか……」
 あかねの瞳から流れる涙をぬぐい、優しく髪を梳く。
「同じ、不安……?」
 本当に穏やかに鷹通は微笑む。
 そして岸辺の木々を見渡す。
「もうすぐ紅葉の季節ですね……きっと、あっというまに貴女と出会った桜舞う季節にもなるのでしょうね」
「?」
 あかねが首を傾げる。
 それを見て取り、鷹通がすぐに返事を返す。
「ずっと一緒に、季節の移り変わりを過ごしましょう。
…私の邸に、いらしてくれるでしょうか?」
 あかねの顔が驚きに変わり、すぐに喜びの表情へと変化する。
「もちろんでっ……………っくしゅん!」
 頷こうとしたあかねの口から、不意うちのように小さなくしゃみ。はっと今の自分の格好を思い出し、あかねは赤くなって鷹通の胸元に顔を埋めてしまう。
「…あかね……」
 鷹通が、ぎゅうっとあかねを抱きしめた。

 
……私は、いつか貴女を……

 
「……鷹通さん? ……何か言いましたか?」
 そうっと、恥ずかしそうにあかねが顔を上げる。
「いいえ。帰りましょうか。このままでは貴女が風邪をひいてしまう」
「はい。あの……黙って出かけてすみませんでした…鷹通さんやみんなに心配かけて…」
 しょんぼりとあかねが俯く。
「いいんですよ。貴女は、貴女らしくしていて下されば。
 私はそんな貴女だから惹かれたのでしょうね」
(天真殿には後でしっかりと文句を言わせてもらうとして)
 にっこりと、会心の笑みを鷹通が浮かべる。
「鷹通さん……」
 純粋な瞳であかねが鷹通を見、無邪気に微笑んだ。
 鷹通もあかねと視線を合わせ、幸せそうに笑った。

 
……けれどまだ、今はこのままで。
 
 
−時は平安。場所は京。
それは遙かなる時空の中の物語。

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